寿司を手で食べる父を見て気付いたこと

エッセイ

先日、父とお寿司を食べにいきました。

東京は目黒の老舗の鮨店です。大将がカウンターで握ってくれるスタイルの、誰がどう見ても大人すぎるお店。

そう、ツウな鮨店で寿司を嗜めるくらい、私はもうすっかり大人になったのです。

 



結婚して、実家を離れ、もうすぐ4年が経ちます。

実は、実家に住んでいた頃から、父と一緒に暮らした記憶というのが、あまりありません。

というのも、私の父は私が幼い頃からずっと単身赴任続きの生活だったからです。盆と暮れに父が帰ってきては、瞬間風速的に家が賑やかになり、そして休みの終わりと共にまた去っていく。

思い出すのはそんな光景です。

思春期に父と衣食住を共にしなかったことは、私にとって、かえってプラスに作用していた面もあります。たとえば中高生の娘にありがちな「お父さん気持ち悪い」みたいな嫌悪感を抱いたことは一度もありませんでした。たまに会えた時は嬉しかったです。

私と父の間には、あまり認めたくはないけれど、ずっとなんとも言えない距離感があって、お互いによく知っているようで、よく知らない。

父には実家以外にも家があって、そこで毎日どんな暮らしをしていたのか、どんな街で、どんな部屋だったのか、毎日どんなものを食べ、どんなことをして過ごしていたのか。

子供だった当時の私には、「実家にいない間の父」のことを慮る想像力はありませんでした。残酷なほどに、目の前の生活に夢中でした。

反対に、父からしてみても、私という娘が、あまりにもあっという間に大人になってしまったと感じているはずです。

赤ん坊だった一人娘は、いつのまにか大人になりました。

私が日々どんなことに悩み、どんな夢を持ち、どんな友人と、どんな学生時代を送っていたのか。そして、人生を添い遂げる相手をどう選んだのか。かけがえのない時間は、共に過ごせないうちに、呆気なく過ぎていってしまった。

もしかすると、父には、少しの後悔と寂しさがあるのかもしれません。私と同じように。

父と私は、そんな儚くも尊い関係で成り立っています。私は父が好きですし、父も私のことが好きです。私の結婚式で、人目も憚らず、終始号泣していた父を見れば、言葉にしなくてもわかります。

 



その父とお寿司に行きました。

2人きりではありません。私の夫と、夫のお父様と一緒に。そして、会の空気を和ますため、私の弟を連れて行きました。その会には、陽気な性格の弟が必要だと思ったからです。

彼も私と同じように、父が知らぬ間に”大人”になった同志です。

私が同志を連れていくことでなんとかしたかったのは、義理のお父様に対する緊張感や、会の盛り上がりに対する不安などではなく、実の父に対する気恥ずかしさだったのかもしれません。

始まる前はどうなることかと心配でしたが、いざ会が始まると、父はひどく上機嫌で、心底楽しそうでした。

一緒に過ごせなかった日々を埋め合わせるかのように、私の父として、夫と夫のお父様に向けて、私の話をしました。

父は、学生時代の私との数少ないエピソードを嬉々として語りました。私は、心許なさを感じつつも、それを照れ臭い気持ちで聞きました。

私の話をする父に、少しの違和感があったことは確かです。それでもやはり、私と暮らした短い日々のことを父が覚えていてくれたのは嬉しかった。そしてきっと、私が感じていたのと同じ違和感や喜びを、父も感じていたと思います。

慣れないシチュエーションにうわずっていた感情も、時間が経つにつれ、次第に落ち着き、その場の空気にくつろぎが生まれていきました。

そして、会も終盤に差し掛かった頃、締めの握り寿司が提供されました。

上質で艶のある鮮やかな江戸前寿司に目が行ったのも束の間、次の光景に私の視線は奪われました。

寿司を箸を使わずに、手で食べる父の姿です。

小慣れた様子で、寿司を素手で掴み、ネタを下に向け、醤油を少しつけては、口に運びました。

私は衝撃を受けました。

たった数秒のうちに起きた、一見なんてことのない出来事ですが、私にとっては、紛れもなくその日のハイライトでした。

なぜなら、その所作は、ツウな鮨店で寿司を嗜む小粋な初老男性のそれそのものであり、

少なくとも私がそれまでに見てきた父の姿とは重ならなかったからです。

そして、おそらくこれこそが「実家にいない間の父」の姿なのだと、ハッとされられました。

その父に、やっと出会えたような感覚に引き込まれました。幼い私が見ることも知ることも想像することもなかった、ひとりの大人としての父の姿です。

やっぱり私は父のことをよく知らない。

その紛れもない事実は、「父がただ手で寿司を食べる姿」、それを見ただけで、十分すぎるほど実感できました。

私にとって、その出来事はまさしく、それまでの人生で、父と私の間にあった、なんとも表現しがたい距離感を確かに浮き彫りにした、非常に象徴的な出来事でした。

それでも、不思議と寂しさはないのです。

寂しいどころか、むしろその瞬間から、父と私の関係が新たなフェーズに突入したような、厚い曇の隙間から、急に晴れ間が差したような、そんな清々しく、心地よい感情が込み上げました。

大人になった今だからこそ、父と娘、ひとりの大人同士、新しく、より絆の深い関係性を築いていける気がしています。

大人すぎる目黒の鮨屋は、私を更に一歩、大人にさせてくれました。

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