先日、ホリエモンこと堀江貴文氏の著書『捨て本』を読んだ。
「大切なモノを捨てていくことが、本当に大切なモノにアクセスする手段になる」として、お金・仕事から人間関係まで、「所有」という概念を手放すことを、自身の経験に沿って説いていく内容だ。
ミニマリスト的価値観にきっと共感できるだろうと思い、本書を手に取ったわけだが、彼のユニークで斬新な発想、そして時にそのあまりの極端さに呆れつつも、感心や学びは大いにあり、あっという間に読み終えた。
衝撃の「修業不要論」
その本の中で、特に強烈に印象に残る箇所があった。
その箇所は、案の定、ネット上で物議を醸し、一部で炎上しているらしいのだ。
僕は近年「修業はいらない」と唱えている。修業は、まぎれもなく時間の浪費だ。
別のところでも書いているが、寿司屋の修業を例にとる。
昔の寿司職人の修業といえば、高校卒業で店に入り、皿洗いなどの雑用で数年、焼き物を担当して数年を費やす。そして包丁を持たせてもらうまで、また数年がかかり、師匠から料理や店の運営のテクニックを教わるようになるのに10年近く、という経過が当たり前だった。
独立できるようになるのは、早くて40代を過ぎたあたり…。遅すぎる。
(中略)みんながスマホを手に持っている時代に、閉鎖的な修業を強いるような仕事場は、完全に終わっている。
何年も時間をかけないと得られないスキルなんて、世の中にはほとんど存在しない。要は、苦労した上の世代が、「時間をかけないと上達しない」というポジショントークで、既得権を守るための勝手な“修業”なのだ。
堀江貴文『捨て本』264-267項
炎上するのも無理はない。彼らしい、歯に衣着せぬ物言いだ。
私がこの箇所を読んだ率直な感想は、「花業界も同じだな」ということである。
あまりにも身に覚えがあり、正直、耳の痛い気持ちと、よくぞ言ってくれた!という気持ち、両方が湧き上がった。
本書で例に挙げられている寿司屋の場合は、修業に必要とする年月が数年単位と、途方もなく長い。それに比べれば、花屋でのキャリアは、そこまで長いスパンで考えなくてはならないものではない。
とはいえ、花業界においても「修業」に似た概念は確実にある。古く閉鎖的な体質も確実にある。
花屋に当てはめるとこうなる
入社したところで、まずしばらくの間は、花を触らせてすらもらえない。ましてアレンジメントやブーケといった商品の制作なんて、数か月、ひどい店なら数年はできないと思った方がいい。花屋に入ったら、早く素敵なブーケの組み方を習って、、、などという幻想は入社2日目には捨て去ることになる。
さて、長い下積み時代の幕開けである。まずしばらくは、花器やバケツを洗う、床の掃き掃除、ゴミ捨て、トイレ掃除などのTHE 雑用と、配送用の段ボールや伝票の準備、売れた商品のラッピング・梱包、そして接客がメインの業務となる。
上の者は「手が空いているときは、とりあえず接客に出てくれればいいから」というスタンスだが、商品や花の知識もほとんどない中で、素人となんら変わりない人間ができる接客なんて、程度が知れている。
「箒と塵取り(ホウチリ)を先輩に持たせない。」
これが私が入社直後、先輩から教えられた、最も反吐が出そうになったトラウマ級の教えである。笑
花屋の床は、切り落とした花や茎や葉で、常に際限なく汚れるものなのだが、その床の美化は後輩の責任であり、たとえ手が空いているように見えても先輩にやらせてはならない、ということらしい。
先輩が箒と塵取りに手をかける前に、先回りして、床を掃かなくてはならない。もし先輩が床を掃いていようものなら、「変わります!!!」と言って、ホウチリを奪い取るのが、後輩としての基本動作らしい。
私は思った。いつの間にか私は、体育会系の部活に入部していたのか、と。そこで球拾いの極意でも教わっているのか、と。
水替え・オアセ・水揚げ……花を制作できない下積み時代は続く
花屋の基本中の基本、花の水替え業務だって、はじめは花を触らせてもらえない。生けてある花を組み直すのは先輩で、新人はその横で、綺麗に洗って水を汲んだ花器やバケツを用意するところからはじまる。
オアシスセット(通称:オアセ)も、下積み時代の代表業務である。オアセとは、アレンジメントをつくるためのカゴや器に、オアシスと呼ばれる、吸水性のスポンジをセットする業務なのだが、これがもう、なんとかならないのかと思うほど、体に悪い。フェノール樹脂という人工プラスチックでできたオアシスの粉は、水を吸う前の乾燥した状態だと、そこら中に舞い散る。乾燥したオアシスを延々とカットする作業を何時間も行う後輩は、当然ながらそれを吸い込むし、目にも入る。くしゃみ・涙が止まらないのはデフォルトだ。今はコロナのおかげでマスクが普通の世の中になったが、当時はオアシスがいくら舞い散らかそうと、勤務中にマスク着用なんて、許されなかった。
そんなこんなで、ようやく水揚げ(市場から入荷した花の下処理)をさせてもらえるようになると、自分が花屋に入ったことを少し実感して、感動する。そのころには、十分に“洗脳”されているので、「このわたくしが、花を触っても宜しいんでしょうか…」という謙虚な気持ちで、恭しく花に触れる。笑
いつになったら花を作らせてもらえるの?
もうお気づきだろうが、「花屋に入ったからには、早く作りを教えてください。」だなんて口が裂けても言えない雰囲気がある。どの先輩も、みな同じように下積み時代を乗り越えてきたからこそ今があるし、花を作る前に学ぶべきことはたくさんある。それを学ばずして、作りがしたいなんて、生意気なことを言うな。まずは下積み業務を完璧にこなせるようになってから言え。
それがおそらく、花業界で働く人々の総意であり、花業界が縦社会と言われる所以だ。
そうやって、まともに作らせてもらえない下積み時代に心折れて、辞めていく人を何人も見てきた。
そんな彼らは、忍耐力がないとか、世の中楽しい仕事ばかりじゃないとか、花屋に向いていなかったとか、そんな見方で片づけられてきた。確かにそれも一理あると思う。
でも、本当にそれだけでよいのだろうか。
修業とは、はたして効率的なプロセスなんだろうか。
修業にまつわる問題点
修業は美徳?
花業界にいると、「修業は時間の浪費」というホリエモンの意見に大反論した多くの人にも当てはまるように、修業そのものが美徳とされ、自分たちの長年の文化だとする謎のプライドが業界にはびこっているのを感じる。
修業の最大の問題点は、その思考停止状態のために、修業が業界にとって本当に効率的なプロセスであるのか、ということを疑ってみたり、もっと良い方法はないか、と模索したりしないことである。
私のベテラン上司はいまだに、「僕の場合、入社3年間はオアセしかさせてもらえなかったよ。でも、そのおかげでオアセのクオリティと速さだけは誰にも負けないよ。」と誇らしげに語る。
出ました、忍耐力マウント。
長い下積み期間が明け、やっと作らせてもらえるようになった時、人はその下積み期間に大きな意義や価値を見出したくなる。「あの期間があったこそ、今があるのだ」と、そこに因果関係があるかのように捉えがちだ。
しかし、客観的に見れば、下積み期間が明けたことと、作れるようになったことには、因果関係はない。言い換えれば、下積み業務をしながらでも、作ることは可能である。
下積み業務が自分の手から離れたのは、自分の後に入ってくれた後輩がその業務を肩代わりしてくれたということに他ならない。
業務をピラミッド構造で捉えてはいけない
このことからもわかる修業のもう一つの問題点は、あらゆる業務をピラミッド構造で捉えている点にある。修業の考え方では、ピラミッドのてっぺんに、制作(寿司屋で言う、料理もしかり)を君臨させているが、実際には各業務は並列横並びの関係にあり、それぞれを同時並行で少しずつ伸ばしていく方が、本来正しいのではないだろうか。
これは経験と実感から言えることだが、花を上手に作れるようになるためには、実際に何度も何度も作るしかない。ひたすら実践あるのみである。床が素早く掃けること、オアセが上手にできること、接客が丁寧なこと。それらの能力と、技術的に素晴らしい商品を作ることは、全く別の能力であり、それらの業務ができるようになったからと言って、作りのスキルが上達するわけでは決してない。ましてやそこに精神論や忍耐力は介在しない。
私は、なにも下積み期間に行う業務を軽んじているわけではない。それらの業務も、花屋を運営していく上で、当然必要かつ重要な業務である。
私が言いたいのは、各業務に求められる能力は別のものであるから、入社当初からそれぞれ同時並行で伸ばしていく方が、よっぽど効率が良いのではないだろうか、ということである。
ホリエモンも言っているが、「目的はなにか?」という点をはっきりさせるべきだ。
花屋の目的は、「お客さんにクオリティの高いフラワー商品をお届けして、喜んでもらうこと」であるはずだ。それならば、すべてのフローリストがいち早く、花に触れ、花を上手に作る実践を積むことが、目的達成のために必要なことではないだろうか。
少なくとも、先輩に床を掃かせないために、ホウチリに目を光らすことではない。そんなことは手の空いている者がさっと素早くやればいいのだから。
本当に店のことを考えるなら、新人に“修業”を押し付けるべきではない。いち早く上手な作り手を育成し、そして花を熟知した作り手自らが接客するからこそ、お客さんに様々な提案ができるのだ。
「新人、手が空いているときは、とりあえず接客に出といて~」ではない!いいから早く花を教えろ!
そうやって、初めから目的を意識し、効率よく花を教え込めば、せっかく育てかけていた新人が嫌になって逃げ出し、また育成が振り出しに戻るなどということも避けられる。離職率の高さは業界の大きな問題点の一つである。
では、修業がなくならないのはなぜ?
修業というプロセスにいくつかの問題点があることはわかった。私の上司も言う通り、たしかにもっと昔の時代に比べれば、修業期間の長さや、業界の閉鎖性は少しずつ改善してきているのかもしれない。
しかし残念なことに、修業文化のある業界の、古く非効率な体質は、今後もそう簡単に変えられるものではないことは確かだ。
その理由はまぎれもなく、ホリエモンの言う通り、
「苦労してきた上の世代が、既得権を守りたい心理」を断ち切ることができないせいである。
今、誰かの先輩である人間は、私を含め、みなその既得権を得ている側の人間である。そのため、それを手放そうという勇気ある決断に至れない。これまでの修業文化を捨て、目的と効率を重視した上で、新人にどんどん作りを教え込む方針になった場合、才能ある後輩によって、長い間我慢してきた自分の地位はあっという間に揺るがされてしまうのではないか、と恐れているのだ。
でもその恐れこそがまさに、ホリエモンの言う、若者から大切な時間を奪う傲慢な考えであると自覚した方が良い。
ホリエモンの意見は、まさしく真理をついていると私は思う。
まとめ
今回は、ネットで物議を醸している、ホリエモンこと堀江貴文氏の「修業は時間の浪費」という意見について、花屋業界の視点から私なりの考察をしてきた。
私はホリエモンの意見に賛成であり、その意見に耳を傾け、自省するどころか、炎上してしまう業界に危うさを感じた。ほら、そういうところだぞ、と。
本書にも指摘があったが、長い下積みの年月が、自信創出のために必要な時間だという側面はたしかにあり、私自身それには共感できるので、自ら修業したい人の熱意を否定するつもりは毛頭ない。
ただ、スキルアップのための教材やノウハウが、ネット上にいくらでも(それも無料で)シェアされている現代においては、修業という人材育成システムは、すでに時代遅れのように感じている。それよりも現場だからこそ積める実践練習を武器に、よりスピーディーに効率よく人材を育てていくべきである。
この記事が、より多くの方の目に留まり、業界の古い体質が時代に沿うものになっていくことを願って止まない。
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